川越画廊 ブログ

2010年10月2日










北川民次の絵のタイトルに「瀬戸の花束」とか「瀬戸の母子像」とかいうのがあって、
最初はあまり経歴も知らなかったので、瀬戸は瀬戸内海のことかと思っていた。(瀬戸の花嫁という歌が流行っていたので・)
瀬戸は、愛知県瀬戸市のことである。

作品は高額で、30年前に初めて買ったリトグラフは確か30万円だった。
ところがデフレのおかげで、今では30万円で立派な油彩画が買える。

縁あって今回油彩水彩の展示会をするわけだが、
以前だったら高額で手に負えなかったことだろう。

所蔵家にとっては、デフレは困ることかもしれないが、
一流の作品に手が届くことは、よいことでもある。




愛知県文化センターのHPに、1996年の愛知県美術館での北川民次展の紹介文があったので、
転載させていただきました。

北川民次(1894-1989)は、1914年に早稲田大学予科を中退してアメリカに渡り、ニューヨークで劇場の舞台背景を制作する職人として働きながら、国吉康雄や清水登之などアメリカに渡った日本人画家たちが学んだことで知られるアート・ステューデンツ・リーグで絵画の基礎を身につけた。彼は1921年にはメキシコに移り、この地で画家としての本格的な活動を始め、革命後のメキシコで美術を民衆のものにすることをめざした野外美術学校の運動に加わり、児童美術教育の実践に取り組むとともに、自身の絵画制作の方向性を探るかのようにさまざまな試みを重ねていった。彼ははじめセザンヌやゴーギャンの影響を受けていたが、やがてメキシコの児童画などに見られる特質、つまり対象(描くもの)を、単に感覚だけでとらえるのではなく、自分が知っているものを描くということに自らの制作の課題を見いだし、これを二十世紀に絵画としての評価に耐えられるものにすることをめざして独自に作風を形成していった。

彼は1936年に帰国すると、翌年にはメキシコ的な題材を、かの地の壁画を思い起こさせるようなダイナミックな構成によって描いた作品群を発表して二科会会員となり、日本での画家としての地位を得ていった。第二次大戦中には瀬戸に移り住み、窯業の盛んな瀬戸の街とそこに働く人々を愛し、自らの作品にそれを好んで描いた。また、彼はしばしば日本の社会がかかえる諸問題を積極的に取りあげるなど、時代に生きる画家として社会と真剣に向かい合い、日本の美術界ではあまり顧慮されてこなかった絵画の社会性についても、一つの具体的な可能性を示した。この北川の思想性のある絵画は、日本の美術界にあって、どちらかと言うと異色のものとしての評価を受けてきた。

しかし、彼が描いた諸々のテーマ(戦争、公害、沖縄問題、教育制度、民主主義、労働、家族、母子など)は、現在もなお解決の糸口さえ見いだされない、むしろ深刻さの度を増している今日的な問題であったり、あるいは私たちの生活の根本にある人間関係であったりするものである。北川は、その意味で今も我々のすぐ近くにいる画家なのである。

by kg142 | 2010-10-02 19:12 | アート