川越画廊 ブログ

5月24日

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tea house 1959-61

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眠りの理由 1962 (アルミの作例、ハイドラと関係なし)


前回の続き
穴を開けたキャンバスを立てかけて置いたら、組み合わせて部屋を作る着想を得て 茶室を作る。
次は素材をアルミにして周り灯籠ような「ハイドラ」となる。
茶室以後の作品をアブストラクトに対する言葉としてコンクリートアートと呼んだ。
60年にオノヨーコを知り、オノを介してジョン・ケージ、アラン・カプロ―、イサムノグチらと出会う。
当時偉大なオーガナイザーであったオノのロフトでの個展を断ると、AGギャラリーへ連れて行った。


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後年の靉嘔、オノ、エメット


62年の2月か3月、そこでジョージマテューナスと初めて出会った。
ここでの9月の個展が決まったが、ジョージの失踪で実現せず。
62年9月12日-10月7日NY初個展 ゴードンズフィフスアベニューギャラリー
tea house ハイドラ ギロチン (このころからこれらをエンヴァイラメントと呼んだ)
個展で知り合った人からウレタンを大量にもらう。

64年ジョージマチューナスがNYに戻り、キャナルストリートに靉嘔の協力でFLUXUSショップを開く。
(FLUXUSではギャラリーをショップと呼ぶ) 先のウレタンをBoxに入れたフィンガーボックッスをショップに並べた。

少し戻って虹の作品、
イリュージョンとアブストラクトを拒否すると色だけ残るということで、ゴードンギャラリーの会期中に虹の作品が生まれる。その後ウレタンが運び込まれ、虹とウレタンとエンヴィラメントが同時進行となる。
かくしてレインボーエンヴィラメントの誕生である。
 (もう少し続く)
[これらは 虹の彼方に(美術手帳1986年9月号-88年6月号)から多くを取材しています。]





展示作品から
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靉嘔  水彩・紙 軸装 制作年不詳  134×56cm






一昨日京橋のLIXILギャラリーでブルーノ・タウト展を見ました。
ヴァルヴァラ・ブブノアがタウトの通訳をしていたと言われていますが、会場でタウトとブブノアが一緒に写った写真を発見しました。
ブブノアとオノヨーコはつながりがあります。
http://japanese.ruvr.ru/2013_02_18/105231594/



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ブブノア 花 リトグラフ・手彩  41×33cm

ワルワーラ(ヴァルヴァラ)・ブブノア
1886.5.17(明治19)~1983.3.28(昭和58)
昭和期の美術家、画家、ロシア文学者
 サンクトペテルブルク出身。小野アンナの姉。語学と文芸を愛好する貴族階層出身の母親の影響で少女時代からピアノと美術を学ぶ。 1907(M40)ロシア・ロマノフ王朝直属のペテルブルグ帝室美術アカデミーに入学し高度な教育を受けた。 '14卒業後は美術教師となり、またモスクワの博物館において研究員を務めた。ロシア革命前後から、「ロバのしっぽ」同人としてロシア・アヴァンギャルド美術部門の振興に加わった。 ソ連建国後は、美術研究所の講師や学芸員を務めながら、地道に制作活動を続けていた。 この時期は、芸術上の導き手でもあった恋人マートヴェイが急逝し、直後に父も他界した。 '21アンナにより二科展に出展された油絵が入選作品となったのを機に、'22(T11)母親を連れて来日。以後36年間日本で過ごす。  '24~'37早稲田大学文学部、'27~'45東京外国語学校でロシア語講師に就き、ロシア文学を日本に伝える上で大きな貢献をした。 '27(S2)在日の白系ロシア人のゴローフシチコフと結婚し20年余を仲睦まじく暮らすものの子供に恵まれず、また戦時中は軽井沢に強制移住をさせられ、'47夫に先立たれる。 '46早稲田大学にロシア文学科が再開('37で一時閉鎖)されると教壇へ復帰した。 '55北海道大学の夏期講座を主宰、'56日ソ学院のロシア語・ロシア文学講師を歴任。「思想」や「中央公論」誌上でロシア構成主義理論を紹介するなど活動し、日本のロシア語ロシア文学の「母」と親しまれ、教え子には作家の五木寛之など多数いる。 もともと油彩画家だったが、来日して日本の新興画壇と交流を深めるうち、版画やリトグラフに表現の可能性を見出すようになった。 戦後には、棟方志功主宰の日本版画院にも参加。またアンナの元夫である小野俊一の居に住まわせてもらっていたこともあり、俊一の翻訳本の挿絵画家、装丁家として何度か活動をともにした。
 '58小野俊一が没したことを機に、同年催された日本橋の白木屋においての「画業50年記念展」を最後に、日本での職を退き、アンナをともなってソ連に帰国した。 帰国後は、グルジアのスフミに居を構え、'59ソ連美術家同盟会員として制作活動を始め、各地で個展を開いた。 '79アンナがスフミにて他界すると、レニングラードに移転し、余生を送った。 '81生誕90周年記念展覧会がレニングラードで催され、'82日本政府より勲四等宝冠賞を賜った。享年96歳。
by kg142 | 2014-05-24 18:33 | アート