川越画廊 ブログ

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2010年10月31日






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昨日雨の中、練馬区立美術館で「大沢昌助と父三之助展」のレセプションがあった。
美術館の開館25周年記念の政治的セレモニーということなのか、区長、議員さんが多く、いつも見える顔ぶれが少なかったように思えた。

今回大沢三之助の詳細な経歴が調べられて、昌助という画家がより深く理解できるようになった。
明治の良きエッセンスがしみ込んだ知性と良心の家族物語だ。

ご子息泰夫さん他の文章もフランクで分かりやすく、接客の合間にカタログを読みふけってしまった。

自分なりに要約すると
父三之助は、西洋からただ法則を移入するのではなく、木々や川などの自然から調和や秩序を学ぼうとし、
昌助は「愛とほほえみ」によって、調和や秩序を成そうとした。
ということだろうか。

*泰夫氏によれば、昌助が『ユーゼフ・シュトラウス作曲「我が人生は愛とほほえみ」は自分の人生のモットーとピッタリだ』と語ったという。
by kg142 | 2010-10-31 18:38 | アート

2010年10月24日




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北川民次 大地にすわる人 1948年 73.5×83.5cm
水性の下地に油彩で描かれているため、薄塗りとなっている


北川民次略歴
1894年 静岡県に生まれる。
1910年 早稲田大学予科に入学。油絵を描き始める。
1914年 早大中退。渡米。
1917年 ニューヨークのアート・スチューデンツ・リーグでジョン・スローンに師事。学友に国吉康雄。
1921年 アート・スチューデンツ・リーグ卒業。
1923年 アメリカ南部諸州を放浪。キューバを経てメキシコへ。
1924年 メキシコのサン・カルロス美術学校に通う。
1925年 チェルブスコ僧院の前期野外美術学校のグループに入り、オルスコ、リベラ、シケイロスらと交流。
1931年 タスコの野外美術学校校長となる。
1933年 藤田嗣治の訪問を受ける。
1936年 帰国。
1937年 第24回二科展に出品、会員となる。日本画壇に衝撃を与える。
1943年 瀬戸市に疎開。
1949年 名古屋動物園美術学校(51年まで)教え子に荒川修作など。
1951年 名古屋市内に児童美術研究所を開設。
1952年 中日文化賞受賞。
1955年 メキシコ再訪。
1959年 名古屋CBCビルに大理石モザイク壁画制作。
1961年 本間美術館で藤田・北川展開催。
1964年 現代日本美術展優秀賞受賞。 。
1968年 『哺育』で第6回現代日本美術展佳作賞受賞。
1970年 銅版画の制作を始める。
1973年 画業60年回顧展開催。
1978年 二科会会長に推されるも同年辞任。
1979年 二科会脱会。
1989年 愛知県で死去。享年95歳。
by kg142 | 2010-10-24 19:07 | アート

2010年10月17日




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昨晩は画廊を閉めてからお客さんと近くのR+さんへ行く、武蔵野美術大学の埼玉支部のグープ展のパーティーに参加した。
実際は出身校はいろいろに見えたが、結構盛り上がっていた。2次会にも参加したら、支部長、学長さんなどもいらした。

Iさんは蓮馨寺の三田会の桟敷席で見物すると言っていたが、いろいろなOB会が祭りを楽しんでいるようだ。

今年は天気がよく人出が多い。
今朝は山車が道をふさいでいて、のろのろとついて来たら、遅刻した。
by kg142 | 2010-10-17 11:54 | アート

2010年10月16日





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北川民次展示風景


今日16日と明日は、川越祭りです。
今年は両日ともオ―プンしております。
出店がふさいでいて画廊の入り口がわからないと思いますが、2階に小さな旗が出ています。
by kg142 | 2010-10-16 11:51 | アート

2010年10月13日







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北川民次 姉と妹 1950年 油彩 30号 二科展


この絵は古い芸新(確か?)に出ていて、ずっと記憶にあった作品だ。
久保貞次郎が「民次の芸者の絵」をたとえて、最初見たときにはなんで醜く、きれいに描かないんだと思うが、時間がたつほどに味わいが増してくる。
というようなことを言っている。
この「姉と妹」もけしてきれいに美人に描こうとしていないが、実に味わい深い作品である。

洲之内徹が、中国戦線の塹壕の中でポアソニエールの絵ハガキを見て気を晴らしていたら、ずっと後になってその絵(海老原喜之助のポアソニエール)が自分の手元に来たと何かに書いている。
ある絵を思い続けていると、いつか自分の手元にやってくると言っている。

肝心の芸新が見つからないが、それに近いようなことかもしれない。


地球博の後も瀬戸の陶器業界は、あまり景気が良くないらしい。

先日テレビで沖縄の金城哲夫のことを紹介していた。
金城は、ウルトラQ、ウルトラマン、ウルトラセブンと立て続けにヒットさせたが、徐々に内省的になりその後ヒットが続かなかった。沖縄に帰り、沖縄海洋博にかかわった。
ところが、自分のかかわった海洋博が沖縄を疲弊させたことで批判を受け、酒浸りになって事故で死んだ(37才)。

地球博も海洋博と同じような結果を生んだのだろうか。

金城の義理の弟に当たる画廊沖縄の上原さんは、先般テレビでも紹介された森口豁展を開催している。
森口豁は金城の影響で沖縄に渡った人だ。はっきりとしたテーマ、問題意識を持って企画展を開催されていることは、尊敬に値すると思う。



ところでずいぶん前の話、(そのころも景気は良くなかったと思うが)そこが「赤津陶工の家」とも知らずに、民次の油彩を持って行商の折、瀬戸の◎◎陶苑に立ち寄ったことがあった。
すると、自分は買えないからといろいろな所へ電話してくださった。結局当時の市長さんに紹介しようと、一緒に市役所まで同行してくださった。
(北川民次の顕彰のためと言って、何の見返りも求めずに・・それも初対面の画商に対して・・逆の立場だったら自分にそんなことができるだろうか)
もちろん市長さんは、購入してくださった(プライベートで)。

北川民次は、周囲の人に愛された画家だったのだ。
by kg142 | 2010-10-13 20:46 | アート

2010年10月9日










昨日のアルゼンチン戦
長谷部の強烈なキックがシュート回転してディフェンスの間を抜けて行った。
キーパーは思わずはじいてしまう。予測したかのように寄せていた岡崎がゴール。
さすがプロです。何度も見てしまいます。
by kg142 | 2010-10-09 19:02 | アート

2010年10月8日





Gallery 健 〒336-0038 埼玉県さいたま市南区関1-1-3
で 平井一嘉展 が開かれています。(10月10日まで)

故金子健二氏の教室跡で奥さまがギャラリーを開設されて、健二氏の教えを受けたことのある平井さんが個展をしている。
というストーリーがあるそうです。イタリア留学時代の作品から最新作まで、見ごたえのある展示となっています。当画廊も個展、グループ展で平井さんを紹介しています。


久保守展が 美術ジャーナル画廊 川越市松江町2-2-2
で開かれています。(10月26日まで)
久保守は美術学校で大沢昌助と同期で、今回初めてまとまった作品を見ました。
ゆったりとした作風は、育ちの良さを感じさせます。




開廊25周年記念 大沢昌助と父三之助展 10月31日~12月23日 練馬区立美術館
東京美術学校の建築科教授だった、大沢三之助との親子二人展です。



北川民次展 10月23日(土)~11月7日(日) 月曜休廊 川越画廊
二科展出品作など比較的大きな作品をっメインに、展示します。
現在一部をプレビュー展示中



































 
by kg142 | 2010-10-08 15:01 | アート

2010年10月2日










北川民次の絵のタイトルに「瀬戸の花束」とか「瀬戸の母子像」とかいうのがあって、
最初はあまり経歴も知らなかったので、瀬戸は瀬戸内海のことかと思っていた。(瀬戸の花嫁という歌が流行っていたので・)
瀬戸は、愛知県瀬戸市のことである。

作品は高額で、30年前に初めて買ったリトグラフは確か30万円だった。
ところがデフレのおかげで、今では30万円で立派な油彩画が買える。

縁あって今回油彩水彩の展示会をするわけだが、
以前だったら高額で手に負えなかったことだろう。

所蔵家にとっては、デフレは困ることかもしれないが、
一流の作品に手が届くことは、よいことでもある。




愛知県文化センターのHPに、1996年の愛知県美術館での北川民次展の紹介文があったので、
転載させていただきました。

北川民次(1894-1989)は、1914年に早稲田大学予科を中退してアメリカに渡り、ニューヨークで劇場の舞台背景を制作する職人として働きながら、国吉康雄や清水登之などアメリカに渡った日本人画家たちが学んだことで知られるアート・ステューデンツ・リーグで絵画の基礎を身につけた。彼は1921年にはメキシコに移り、この地で画家としての本格的な活動を始め、革命後のメキシコで美術を民衆のものにすることをめざした野外美術学校の運動に加わり、児童美術教育の実践に取り組むとともに、自身の絵画制作の方向性を探るかのようにさまざまな試みを重ねていった。彼ははじめセザンヌやゴーギャンの影響を受けていたが、やがてメキシコの児童画などに見られる特質、つまり対象(描くもの)を、単に感覚だけでとらえるのではなく、自分が知っているものを描くということに自らの制作の課題を見いだし、これを二十世紀に絵画としての評価に耐えられるものにすることをめざして独自に作風を形成していった。

彼は1936年に帰国すると、翌年にはメキシコ的な題材を、かの地の壁画を思い起こさせるようなダイナミックな構成によって描いた作品群を発表して二科会会員となり、日本での画家としての地位を得ていった。第二次大戦中には瀬戸に移り住み、窯業の盛んな瀬戸の街とそこに働く人々を愛し、自らの作品にそれを好んで描いた。また、彼はしばしば日本の社会がかかえる諸問題を積極的に取りあげるなど、時代に生きる画家として社会と真剣に向かい合い、日本の美術界ではあまり顧慮されてこなかった絵画の社会性についても、一つの具体的な可能性を示した。この北川の思想性のある絵画は、日本の美術界にあって、どちらかと言うと異色のものとしての評価を受けてきた。

しかし、彼が描いた諸々のテーマ(戦争、公害、沖縄問題、教育制度、民主主義、労働、家族、母子など)は、現在もなお解決の糸口さえ見いだされない、むしろ深刻さの度を増している今日的な問題であったり、あるいは私たちの生活の根本にある人間関係であったりするものである。北川は、その意味で今も我々のすぐ近くにいる画家なのである。

by kg142 | 2010-10-02 19:12 | アート