川越画廊 ブログ

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5月31日 最終日



今日が靉嘔展最終日です。
来場者は最後に少し伸びたように思えます。
回を重ねるごとに周知されて行く面もあるので、見飽きたという方もあるかもしれませんが、来年も再び開催いたします。
次回は、ミニアチュールのドローイングを大きな作品と合わせて展示する予定です。





前回の続き
1966年ベニスビエンナーレでレインボーエンヴァイラメントを発表、虹の画家として大きな話題となる。
このころから版画制作を本格化。70年代以降日本国内の版画ブームと相まって、虹の版画家として有名になる。
虹の発見以来、描くのをやめてすべてを虹でカバーするというコンセプトは、現在に至る長い虹の時代にどのように貫かれているのか。
ゴーギャン、ルソー、浮世絵・あるいは写真などを虹でカバーするのはよしとして、動物、レインボーマン&ウーマンなどには独自の形態があるようにも見える。
版画に関しては、色の入った原画があるわけではなく、多くを摺り師の裁量にゆだねている点で描いていないと言えるかもしれない。
多くの既存の形態を虹でカバーしている点で、靉嘔がポップアーチストと呼ばれるのか。
つづく。


昨年来日され、今秋も帰国巡回展を予定されていました木村利三郎先生が、5月14日ニューヨークのアトリエで亡くなられました。89歳。
by kg142 | 2014-05-31 19:36 | アート

5月24日

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tea house 1959-61

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眠りの理由 1962 (アルミの作例、ハイドラと関係なし)


前回の続き
穴を開けたキャンバスを立てかけて置いたら、組み合わせて部屋を作る着想を得て 茶室を作る。
次は素材をアルミにして周り灯籠ような「ハイドラ」となる。
茶室以後の作品をアブストラクトに対する言葉としてコンクリートアートと呼んだ。
60年にオノヨーコを知り、オノを介してジョン・ケージ、アラン・カプロ―、イサムノグチらと出会う。
当時偉大なオーガナイザーであったオノのロフトでの個展を断ると、AGギャラリーへ連れて行った。


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後年の靉嘔、オノ、エメット


62年の2月か3月、そこでジョージマテューナスと初めて出会った。
ここでの9月の個展が決まったが、ジョージの失踪で実現せず。
62年9月12日-10月7日NY初個展 ゴードンズフィフスアベニューギャラリー
tea house ハイドラ ギロチン (このころからこれらをエンヴァイラメントと呼んだ)
個展で知り合った人からウレタンを大量にもらう。

64年ジョージマチューナスがNYに戻り、キャナルストリートに靉嘔の協力でFLUXUSショップを開く。
(FLUXUSではギャラリーをショップと呼ぶ) 先のウレタンをBoxに入れたフィンガーボックッスをショップに並べた。

少し戻って虹の作品、
イリュージョンとアブストラクトを拒否すると色だけ残るということで、ゴードンギャラリーの会期中に虹の作品が生まれる。その後ウレタンが運び込まれ、虹とウレタンとエンヴィラメントが同時進行となる。
かくしてレインボーエンヴィラメントの誕生である。
 (もう少し続く)
[これらは 虹の彼方に(美術手帳1986年9月号-88年6月号)から多くを取材しています。]





展示作品から
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靉嘔  水彩・紙 軸装 制作年不詳  134×56cm






一昨日京橋のLIXILギャラリーでブルーノ・タウト展を見ました。
ヴァルヴァラ・ブブノアがタウトの通訳をしていたと言われていますが、会場でタウトとブブノアが一緒に写った写真を発見しました。
ブブノアとオノヨーコはつながりがあります。
http://japanese.ruvr.ru/2013_02_18/105231594/



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ブブノア 花 リトグラフ・手彩  41×33cm

ワルワーラ(ヴァルヴァラ)・ブブノア
1886.5.17(明治19)~1983.3.28(昭和58)
昭和期の美術家、画家、ロシア文学者
 サンクトペテルブルク出身。小野アンナの姉。語学と文芸を愛好する貴族階層出身の母親の影響で少女時代からピアノと美術を学ぶ。 1907(M40)ロシア・ロマノフ王朝直属のペテルブルグ帝室美術アカデミーに入学し高度な教育を受けた。 '14卒業後は美術教師となり、またモスクワの博物館において研究員を務めた。ロシア革命前後から、「ロバのしっぽ」同人としてロシア・アヴァンギャルド美術部門の振興に加わった。 ソ連建国後は、美術研究所の講師や学芸員を務めながら、地道に制作活動を続けていた。 この時期は、芸術上の導き手でもあった恋人マートヴェイが急逝し、直後に父も他界した。 '21アンナにより二科展に出展された油絵が入選作品となったのを機に、'22(T11)母親を連れて来日。以後36年間日本で過ごす。  '24~'37早稲田大学文学部、'27~'45東京外国語学校でロシア語講師に就き、ロシア文学を日本に伝える上で大きな貢献をした。 '27(S2)在日の白系ロシア人のゴローフシチコフと結婚し20年余を仲睦まじく暮らすものの子供に恵まれず、また戦時中は軽井沢に強制移住をさせられ、'47夫に先立たれる。 '46早稲田大学にロシア文学科が再開('37で一時閉鎖)されると教壇へ復帰した。 '55北海道大学の夏期講座を主宰、'56日ソ学院のロシア語・ロシア文学講師を歴任。「思想」や「中央公論」誌上でロシア構成主義理論を紹介するなど活動し、日本のロシア語ロシア文学の「母」と親しまれ、教え子には作家の五木寛之など多数いる。 もともと油彩画家だったが、来日して日本の新興画壇と交流を深めるうち、版画やリトグラフに表現の可能性を見出すようになった。 戦後には、棟方志功主宰の日本版画院にも参加。またアンナの元夫である小野俊一の居に住まわせてもらっていたこともあり、俊一の翻訳本の挿絵画家、装丁家として何度か活動をともにした。
 '58小野俊一が没したことを機に、同年催された日本橋の白木屋においての「画業50年記念展」を最後に、日本での職を退き、アンナをともなってソ連に帰国した。 帰国後は、グルジアのスフミに居を構え、'59ソ連美術家同盟会員として制作活動を始め、各地で個展を開いた。 '79アンナがスフミにて他界すると、レニングラードに移転し、余生を送った。 '81生誕90周年記念展覧会がレニングラードで催され、'82日本政府より勲四等宝冠賞を賜った。享年96歳。
by kg142 | 2014-05-24 18:33 | アート

靉嘔展




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宇宙 1958年 120号    右 祭Ⅰ  1959年  120号

「第10回読売アンデパンダン展」1958年2月4日-3月27日に「宇宙」を出品。同年5月19日渡米。



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渡米後一年かけて「アニメイテッドペインティング」と呼ぶ和紙に描いた作品を100点描いて、画廊を回るが思うような評価を得られず、当時全盛のアクションペインティングのような作品を描く。(上の 祭Ⅰ)
その内の一点が500ドルで売れる。



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出口なしのアクションペインティング、人真似はなし100%独創でなければならないと、それまでの作品に無意識に×(バツ)を付ける。拒否という意味を込めて・・
しかしやがて × という字の作品に生まれ変わり、美しい×を描こうとする。しかしそれは間違いなのだ。

手で描くからいけないのだと、流木を打ちつけて×にするとより重厚な作品となってしまう。


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拒否を示すのに、バツがだめなら焼いてしまえばよいということで、×をつけたあたりをバーナーで焼いて穴の作品となる。(この画像とは少し異なりますが)
つづく





以下は初期のリトグラフです。
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by kg142 | 2014-05-13 19:40 | アート

靉嘔展 展示





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狭い画廊スペースでどのようにアレンジしても限界がありますが、同じ大きさの版画を展示したこの壁はきれいな展示となりました。


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by kg142 | 2014-05-09 16:10 | アート

5月7日




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靉嘔AY-O初期作品展 PartⅢ
2014 5月13日(火)~31日(土) 12:00-19:00 open 日・月 休廊




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靉嘔 ライオン 1956年 リトグラフ 30×45cm  ed.20


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靉嘔 枯葉 1957年 リトグラフ  28×45cm ed.12









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by kg142 | 2014-05-07 18:36 | アート

5月1日





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パンジーあるいはお猿の顔 (実野理ガーデンの入り口にありました)







今日の逸品
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小熊秀雄  小さなジャイアント 水彩 1938年  23×13cm



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左:寺田政明 左から二人目:小熊秀雄 1935年頃
池袋モンパルナスの名付け親:小熊秀雄
1901年(明治34年)9月9日、北海道小樽市稲穂町に生まれる。幼少期を稚内市・秋田・樺太で過ごし、泊居高等小学校を卒業。養鶏場の番人など様々な雑務作業に従事した後、1922年より旭川新聞社で新聞記者となる。この頃から詩作を始め、1928年、27歳で上京後は雑誌社や業界新聞で働きながら、雑誌『民謡詩人』などに作品を発表。1935年に「小熊秀雄詩集」長編叙事詩集『飛ぶ橇』で詩人としての地位を確立、自由や理想を奔放に歌い上げる作風で、詩壇に新風を吹き込んだ。詩作にとどまらず、童話・評論・絵画など幅広い分野で活躍した。
小熊の最初の詩集「小熊秀雄詩集」の装幀をおこなった寺田政明ら池袋モンパルナスの画家たちと交流し、みずからも絵筆を執った。なお「池袋モンパルナスに夜が来た」という文で始まる詩を発表。「池袋モンパルナス」の名づけ親も小熊といわれている。
また晩年は、漫画出版社・中村書店の編集顧問となる。旭太郎名義で原作を担当した漫画『火星探検』(1940年)はSF漫画の先駆的傑作とされ[1][2]、手塚治虫、小松左京、筒井康隆、松本零士らに大きな影響を与えた[1][2]。
1940年(昭和15年)11月20日、東京市豊島区千早町30番地(現在の東京都豊島区千早)東荘で、肺結核により死去した。満39歳没。(ウィキペデイアより)

前回は中途半端に終わったので、再び「小熊秀雄と池袋モンパルナス展」を開催すべく準備中。










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by kg142 | 2014-05-01 15:13 | アート